朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった()を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。
13ちなみに彼女には義時毒殺疑惑もありますが……実際はどうだったのでしょうね。 なぜかと言うと、平治の乱で破れた源義朝の息子である源頼朝が流刑で伊豆にやってきたから!! 伊豆に住んでた北条時政は、 流刑人となった源頼朝の監視役を勤めます。
15『』によると、頼朝と政子の関係を知った時政は政子を伊豆のと結婚させようとしたが、政子が頼朝の元へ走ると、一転して時政は二人の結婚を認めた、とある。 1199年に源頼朝が亡くなると、次期将軍に頼朝の長男である 源頼家(みなもとのよりいえ)が選ばれます。
33年()7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。
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