1897年(明治30年)黒田清輝が妻を連れて箱根に行ったときに「湖畔」を制作しています。 印象派の影響を取り入れた外光派様式を国内で提唱。
舞妓(、東京国立博物館、)• 「裸体画の表現を日本に持っていかないと日本は一等国として認められないという、西洋美術の本流を日本に根づかせようということで躍起になっていた」。 黒田の師コランは、この画家の友人でもあり、その影響からコラン自身も、外光表現をとりいれていたのだった。
築地英学校で英語を勉強し、17歳で東京外国語学校の二年生に編入学し フランス語を学びます。 日本近代絵画の巨匠・の遺言により、1928年に黒田記念館が完成しました。
幼い頃叔父である綱の養子に。 黒田清輝の人柄や絵の技量が優れていたことなどを含め、彼の日本美術史における功績は大きく今も語り継がれています。
15黒田清輝(一八六六-一九二四)は初め法律を学ぶ目的でフランスに留学したが、のち画家となる決心を固め、折衷的外光派の画家ラファエル・コランに師事し、本格的な洋画の修練を積んだ。 ***************. 仲間同士の酒宴での愚痴から生まれた新しい組織 「頃日世の旧派と目する小山正太郎、山本芳翠、新派と俗する黒田清輝、久米桂一郎諸氏の間に起りぬ、終に我々は同感の士と精神的な結合を為して、此目的を達すべしところも新団体は生まれぬ(後略)(明治29年5月27日毎日新聞より)」 このように、当時の毎日新聞に「白馬会」結成のことが大きく報じられました。
20ラファエル・コラン「」 早速黒田はアカデミーの重鎮ラファエル・コランに弟子入りします。 それゆえに、ここで学んだ学生のひとり湯浅一郎は、当時黒田から、「君たちのやつてゐる事もいいが、フランスで一年でやることを五年もかかるので、非常に損をしているのだ」(「私の学生時代」)と言われたと回想しているように、新しい視覚と、それを表現するための画材をもちこんだのである。 黒田が帰国直後、京都旅行をしたときの情景を描いたものだが、黒田の話によれば、たまたま訪れた静閑寺の門前で僧侶が『平家物語』を語っていたという、その時、何百年も前にタイムスリップしたような不思議な気分になり、その時の情景が忘れられないと語っている。
14