7月19日に毛利輝元が大坂城へ入ると、西軍は、 細川藤孝(ほそかわふじたか)の籠る田辺城がある丹後方面と家康の家臣・ 鳥居元忠(とりいもとただ)が守る京都の伏見城へ派兵、伏見城攻めには宇喜多秀家始め小早川秀秋(こばやかわひであき)も参戦していました。 6月15日には豊臣秀頼と 淀君(よどぎみ)から出陣の餞別を送られ、翌16日には大阪を出陣しました。 9月17日早朝、徳川家康は小早川秀秋、井伊直政、田中吉政らに攻撃を命じる。
小早川が東軍に攻撃を開始した時点で徳川と吉川の約束がパーになる。 井伊直政・本多忠勝の所領安堵の起請文に偽りがないこと、反抗しなければ処分はなく協力をすることを伝える。 このように、戦国時代より領土を拡張していった毛利氏は関ヶ原の戦いの前後の政変に於いて、豊臣政権の名において四国に対する各方面での攻略を行ったが、関ヶ原の本戦で西軍が一日にして敗北すると兵を収め、その反徳川的行動から所領の多くを失うこととなった。
15隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。 ところが、この 福島正則は小山評定が開かれたときには先発部隊としてすでに西に向かっており、評定自体に参加していない疑惑があります。 【当代記】【関原軍記大成】 (【慶長年中卜斎記】では26日に家康が大坂城へ入り豊臣秀頼と対面する。
6806• 5m)で山頂まで続いています(一部階段あり)。 通説では正午といわれていますが、一次史料などによれば寝返りは開戦と同時、あるいは西軍の拠点だった松尾山を陣取った時点で、東軍への参加を表明していたともいわれています。
12清正と家康の疎遠化という事態に対し、西軍は毛利輝元らが書状を送って西軍への参加を求めて説得工作を行った(前述の毛利勝信の派遣もその一環である)。 関ヶ原北側にある歴史民俗資料館(近くに徳川家康最後の陣跡)を起点にし、丸山のろし場を経て石田三成の陣跡「笹尾山」に進みます。 (【真田軍功家伝記】による経緯) 信幸は義父の本多忠勝に昌幸・信繁の助命を嘆願する。
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