以下は、デカルトのテキストを離れた私の感想です。 これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。
4私たちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察してはいないことから生じるのである。
人生の答えが哲学で分かったが分かったところで何も人生は変わらない。 分からないのですが 欺くという行為がおこなわれたなら 今度はその相手も必然的にいることになります。 このことが、相対性理論と量子力学がニュートン力学を拡張する仕方で成立してきたことの認識論的な背景にあります。
8故に、これを単なるのと考えるのには慎重を要する。
後年、このニーチェの批判が「主体の形而上学」として爆発的に広まった。 とま、こんなところで. 『情念論』 デカルトは決して多作ではありませんが、それでもなお哲学の歴史では非常に重要な位置を占めています。 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】 4. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けてそれについては 反論して答えています。
15よって偽である。 デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。 現代の私たちでいえば、例えば新聞に書いてあることやテレビに出ていること、学校の教科書に書いてあること、広辞苑に出ていること等は、疑いの余地がないとみなされています。
19ある子供が産まれた。 理性は誰もが等しく備えているので、理性の使い方を間違えないかぎり、世界についての推論は共通のゴールに達することができる。 1ページに2、3個は何かを仕掛けてくる感じ。
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