武田家が北条家に攻め込んだ「三増峠の戦い」では武田家の攻撃から城を守りきるが、津久井衆の半分は武田家に味方していたため、撤退していく武田軍の本隊を追撃せず、そのまま見過ごしたという。 秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの 、当時の政権内では東国についての優先度は低く 、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。 54,南部の鈴木氏 - - 参考諸家系図に「姓 藤原、紋 下り藤、生国近江」と。
家康寄りの周辺諸大名と戦った()景勝は改易は免れたものの、慶長6年()には北隣へ減移封された。
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