2個師団が長沙攻略に手間取っている間に、背後から中国軍30個師団が迫ってきて包囲されてしまった。 鈴木は質問もせず、難色も示さず、杉山が拍子ぬけするほどあっさりと三条件を呑んだ。 もし阻止できなければ、大臣は切腹すべきです」と詰め寄ったが、阿南は口を真一文字に結んだまま何も言わなかったという。
9阿南は陸軍の本土決戦のための戦力温存策には反対であり、特攻には批判的ながら「本土決戦ばかり考えず、航空戦力すべてを挙げて沖縄の敵を叩くべきだ」「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」とに詰め寄っている。
10そして、目に飛び込んできたのが、「陸相秘書官であった林三郎大佐は『阿南さんの欠点は何かと聞かれて、私は、<知性が高くなかったこと>と答えた』と語る。 終戦工作をすすめた鈴木貫太郎内閣において、あくまで「徹底抗戦」を叫んだことで知られますが、真実はどうだったのでしょうか。 また、尾形健一陸軍大佐侍従武官の日誌である「尾形健一大佐業務日誌」は太平洋戦争下の宮中の状況を知る貴重な史料である。
20鈴木貫太郎内閣は終戦を持って総辞職し、終戦処理の東久邇宮内閣が発足しますが、米内は引き続いて海軍大臣を勤めます。 とても私などには無理な仕事(これは本当だ)というたじろぎと、まるで濃霧にでも包まれていたように、私には手がかりがないと感じられたからである。 1942年まで兼任。
4又国体護持に関しては、先方は之を認めて居るものと信じ不安を有せず。 その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝路安城も攻略した。 陸軍の青年将校がクーデターを計画しているという噂は鈴木の耳にも届いており、阿南が青年将校たちの圧力に屈して陸軍大臣を辞任する懸念もあり、鈴木と東郷は結論を急いでいた。
7(明治39年)1月14日に行われた乃木の行進を、阿南は一般国民に交じり街道に並んで見送っている。 陸軍工兵隊により50トン爆弾に耐えられるよう作られた。 勿論其の器にあらざるを自ら識る」と日記に記しているなど否定的であった。
9シェークスピアも、全ヨーロッパを治めたこの偉大な帝王には一顧も与えなかった。