西洋の最新武器を沢山持っていて、幕府が戦をしても、勝てる確率はかなり低い物でした。 一方で、松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や、大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣などによって、大政奉還論(大政返上論)が早くから提唱されていた。
16大政奉還の場が二条城と言うのは間違い? 正確に言うと最後の将軍・徳川慶喜が「大政奉還をして政権を朝廷に返上しようと思うけど、何か意見はないか?」と上洛中の各藩の重臣に詰問したのが二条城だったのです。
13具体的には、廃藩置県によって、これまでの行政区分だった「藩」がなくなって、新しく「県」が置かれることになります。 将軍在任中は一度も江戸に行っていません。
19一方、将軍家茂はこれより前の長州征伐の際に病没し、京都の慶喜が将軍となっていました。 密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還が朝廷に受け入れられたことにより、いったん延期となったが、薩摩・長州・芸州の3藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで12月9日のへと向かっていくことになった。 こうした状況下、15代将軍慶喜は土佐藩の後藤象二郎から大政奉還の建白を受けます。
11慶喜がナンバー2として雄藩連合をつくるシナリオを阻止しようとしたのです。 これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日である事に因んでいる。 そのため盟約には土佐藩の上京出兵および将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。
2次に、その年号について見ていきます。 いかがでしたか。 「勅」とは天皇の命令ですが、当時、明治天皇は幼少であり、岩倉が勝手に創り上げたものでした。